大阪市立弘済院

今日は親戚とともに、元職場の大阪市立弘済院の現職・OG、配置転換で他の職場に移った人もたくさん来てくださいました。大学卒業から38年、非常勤を含めると40年の勤務のうち、「おとしより健康センター」に7年出向した以外はずっと総合福祉施設・弘済院の各施設を回っていましたから、お付き合いいただいた方も多数です。

北沢は、付属病院の医療ケースワーカーを振り出しに、特養の一形態として建設された「痴呆性老人専用棟」、終のすみかとしての養護老人ホーム、そして280床の新たに建設された特別養護老人ホーム、最後は痴呆性老人のための「電話総合相談センター」、高齢者福祉にたずさわり続けてきました。顔を出してくださるのは、その時々、一緒に仕事で苦労した仲間です。

また、海外に視察に出かけた時ご一緒だった民間福祉団体の方もきてくださっています。まだまだ仕事をしたかったでしょうが、私から見ればよく頑張ったのではないかと思います。

『なぜこんなに早く・・・』と皆さんから問われますが、昨年5月に実父が死去するまで、父の透析、母の介護が北沢に集中していて、発見が遅れたとしか考えられないと応えています。東京から二人を同じマンションの1階に引き取ったのは私が国政復帰する前ですから、4年以上、自分の身を振り返ることができなかったのではと、今更ながら私も悔やんでいます。それを少しも口にしなかったところに北沢の強さがあったわけですが・・・。

今日一日、体温は38度前後、血圧も70台で推移し、指先の酸素摂取は90台後半で推移しています。

遠くからの見舞い

昨夜は血圧の低下もあって大地と二人で泊まりましたが、今日は体温が高い以外は小康を保っています。体温は38度台、血圧は80半ばから90半ばの間、眠り薬が効いているのか呼吸数が少なく、忘れた頃に「ふぁああー」と大きな息をするのは不安です。

今日は、北沢の母の親戚、高知に住む妹 (叔母 )、福島区のすぐ下の妹の長女 (いとこ )とその兄の連れ合いが、一番下の弟 (叔父・故人) の連れ合いの車で見舞いにきてくれました。みんな、元気だった時の北沢しか知らないので、わずかな期間に重篤な状況になった北沢に驚きを隠せませんでした。

夜になって従姉妹からは私に励ましのメールがあり、何度かやり取り。『哲兄が心配です。啓子姉ちゃんは十分がんばってると思うから、見守ってあげましょう!』『確かに-----辛い!ずっと見守っている家族には残酷かも。でも緩和ケアは啓子姉ちゃんの辛さを軽減してるんでしょ。あたしもうまく言えないけど。哲兄ちゃん、しっかり休めるとき休んでね。おやすみ。』

沢山のお見舞い

10日朝、体温39.2度、血圧90、解熱剤使用できず。

今日も北沢の職場であった弘済院の方を中心に関学の学友など、たくさんの人々がお見舞いに来てくださいました。午後には選挙準備で忙しい梅村聡参議院議員も。

しかし北沢の容態は予断を許しません。午後3時過ぎから苦しそうな呼吸に変わり、息も浅くなり、血圧が60まで下がりました。今夜は大地と一緒に病院に泊まります。夜10時半、体温37.9度、血圧80、酸素摂取89

闘病55日目

彩都友紘会病院での闘病55日目になります。北沢のことを一度公表したので、短くでも書き続けたいと考えています。

昨日から日中も睡眠剤の利用が主治医より提案されました。痛み止めだけでは、身の置き場のないようなしんどさに本人が苦しむので、それを軽減するためにだそうです。

確かに朝方に、俯せの姿勢で寝ていた時、管を通らず逆流した体液を吐き寝衣を汚しました。また、その後に排出される体液は血が混じっており、どこからか出血しているようですから、余計に本人を苦しめることがないようお願いしました。それでもこちらの働きかけにはうっすらと反応しています。夜は2ml/hにあげて、痛み止めとともに北沢が熟睡できるようにしていただいています。

北沢の兄・淳と長男大地は、少し落ち着いて眠っているのを確かめて午後10時前に十三に引き上げました。今夜はできるだけ眠らずにベッド脇にいたいと思います。( 9日午前0時 )

眠剤が効いたのか、ほぼ仰向けの体勢で寝入っているのを確かめつつ、私も仮眠が取れました。6時の血圧は90、体温37.3度微熱、酸素摂取98で安定しています。( 9日午前6時 )

朝、兄の淳と大地が来てくれたので、私は交代で自宅に帰り、洗濯を済ませシャワーを浴び、午後1時頃再び病院へ。
今日は一日眠ったまま、しかし、右に左に寝返りを打って身の置き所がないという様子はありませんでした。時折苦しそうな呼吸になったりすると、管を通じて排泄されない体液を鼻から吸引して貰ったり、睡眠剤を少し早送りして貰ったり。

口を開けて眠っているので、口の中が乾燥し唇も荒れてきます。一度、口の中を清めてもらい、もう一度はジェルを塗り込んで保湿を図ったり、私たちにできることは再々リップクリームを唇に塗ってあげるぐらいです。

見舞いの方にも顔を見ていただくだけで申し訳なかったけれど、呼びかけは北沢に聞こえていた気もします。
孫の陽向も毎日やってきてベッドの空きスペースが遊び場、座り込んで愛想を振りまいたり、後ろから抱いてベッドのパイプに足をかけさせると『あああーー、あああああー』とおおきな声を出したり、これもきっと聞こえていると思っています。

血圧104、体温37.1度、酸素摂取97、ほぼ変化はありませんでした。( 9日午後8時30分 )

励ましの連絡や見舞い

一昨日のフェースブックやブログを読んでくださった多くの方から激励の連絡をいただいています。
私自身、一週間でこんなに病状が悪化するとは夢にも思いませんでした。

胃がんに統計的には最も効果的だと言われる「TS-1」が効かなかった段階でも、次に確率が高く副作用が少ない「パクリタキセル」に期待し、場合によっては第3の、第4の抗がん剤も併用してがんをやっつけようと二人で話ししてきました。

北沢ががんと闘っている間も、日常生活は変わりなく、変に悲観的になるべきではないと、午前中は主夫、午後は病院での付き添い、夕刻に『もう帰っていいよ』と言われてゴルフの練習に寄るか、買い物して晩酌、そんな生活を続けて来ました。『楽しんでおいで』と送り出されて、4月に5回、5月に4回コースにも行きました。

9月に丸7年の再リースが切れる車をどうしようか、北沢を含めて家族で検討を進め、いろいろな車種を見に行ったり試乗したりして、その都度北沢に報告し、結局、孫の陽向のチャイルドシートの事を考え、祖母を含めると6人家族になったので、始めてですがミニバンに決めて契約したところでした。『次は “ 禁煙車 ” にして頂戴』というのが購入の条件でした。そんな日常がはるか遠くに霞んでいます。

今日は、朝に北沢の携帯に東京の叔母からメールが入り、私が電話で返信。病院には横浜の兄と兄の息子二人、叔父夫婦と、叔母とその長女、親戚が10人以上集合しました。また私の支持者のみなさんも見舞いにきてくださいました。昨夜はあまり眠れず辛そうでしたが、目を開けて挨拶できて良かったと思います。

妻、北沢啓子の闘病

ブログやフェースブックの更新を2ヶ月余りしませんでした。“政治向きの話”を書く気にならなかったこともありますが、連れ合いの北沢啓子が4月15日に再入院して、それをつまびらかに書くことができなかったことが一番の理由でした。

当初入院していた阪大病院と連携するがん治療拠点病院である「S都Y病院」にお世話になっています。阪大の主治医ととも連携して治療に当たっていただいてきました。

昨年7月に胃がんで全摘手術を受け、進行がんだったので「TS-1」と言う抗がん剤を8ヶ月ほど飲み続けました。しかし、2月17日の私の「感謝の集い」が終わって、3月初め頃から腹痛と吐き気に悩まされ、検査の数値が悪いのにどこに問題があるか判明せず、4月5日のCT検査で、ようやく腹水が溜まっていて、腹膜への転移 ( 腹膜播種 ) が疑われ再入院になったのでした。

食事がほとんどできない状態でしたから、中心静脈に栄養剤を点滴で注入し、4月18日から週一回、「TS-1」に変えて新しい「パクリタキセル」という抗がん剤を使って『進行抑制』をめざし、本人も家族も新しい薬がガンをやっつけてくれるのを期待して、私も毎日病院に通っていました。息子の大地、連れ合いの仁美、孫の陽向も日を開けずに顔を出し、沢山の友人も励ましにきてくださいました。

5月30日の第2クール3回目の抗がん剤投与は白血球が多すぎて中止、これを前後して急速に容態が悪化しています。6月2日に個室に変わって、私も日中は大地と交代して貰いながら夜は病院に泊まることにしました。現在は、「高栄養剤」より若干カロリーの低い点滴、本人の希望によって量を調整できる痛み止めの点滴、吐き気を避けるために胃液や腸液の逆流を直接排出する「胃菅」を鼻から挿入し、酸素も吸入で補う状態です。

眠っていることも多いですが、声をかければ反応し、見舞いの人たちには、ジェスチャーで感謝し、握手を求め、昨日も『気をつけて帰ってね』と応じていました。先ほども「痛い、しんどい、何かして欲しい?」と声を掛けると『大丈夫、大丈夫』と応えています。

残念ながら、「進行抑制」から「緩和ケア」に移行したと考えなければなりません。今日、阪大病院の主治医と家族で話す機会がありましたが、『再発までの期間、再発してからの進行、いずれも予想を超えた事態だった。残念としか言いようがない』とのことでした。いろいろ心配いただいている多くの人々に、この段階で正確な状況を伝えるべきだと考え、病院でブログなどにアップすることにしました。
北沢も全力で闘っています。私も家族とともに最後まで寄り添って行くつもりです。

ゴルフ再デビュー

淀川区のDr.Jに誘われて、医院の患者さんで続けてきた45回目のコンペに参加しました。午前7時に自宅を出発、阪神高速中国道で約1時間、ひょうご東条で降りてすぐのグランドオークゴルフクラブです。

この日に備えて練習に励んできたつもりでしたが、ドライバーのフックに悩まされ思ったようなゴルフをすることが出来ませんでした。やはり練習場とコースは違います。午後はドライバーを封印してティーショットを3Wに代え、パーを2つ、ボギー4つで47で廻りましたがグロスは101、むしろこれからのめり込みそうです。それでも、心配していたアプローチとパットはまずまずでした。

それに、Dr.Jの推薦で今日廻ったコースの平日会員『イーグル会』に加入申し込みしました。コースが気に入ったことと、年会費21,000円(キャンペーン中で初年度はゼロ)で平日のみメンバーフィーでプレイでき、オフ期(7・8・1・2月)は土日祝もプレーできます。バブル期には会員権が6千万円もしていたようですが、現在は預託会員(ホームページでは1000万円弱で若干名の募集はしています)だけでは成り立たず、このような登録会員を募っているようです。

Dr.Jも大きな病気をしてから週3回に診療を絞っておられるようで、お友達もできたのでこれからが楽しみです。